「センス」の話

前回、理系の『センス』の話をしたと思いますが、この『センス』って奥深いですよね。

どうやってセンスは作られるのか?先天的なのか後天的なのか?どうやったら磨かれるのか?という事を考えてしまうからです。

勉強のことで言えば、私自身が完璧な『センス』を持っていたわけではなくて、劣等感は常にあったと思います。

だから少しでもその『センス』をバージョンアップするためにどうすればいいかをずっと考え、自分の立ち位置(役割)はどこなのかを考え、反復反復して勉強していたような気がします。

薬剤師においても処方解析や服薬指導なんかは『センス』が非常に必要となります。

処方せんを見てどんな患者でどんな疾患か?医師は何故この薬剤を選んだのか?医師が何を言いたいのか?これらを見極めるには基礎的な医学薬学知識はもちろん必要ですが、もう一つ、説明出来ない『センス』も必要なんですよね。

これは生まれ持ったものもありますが、目的や結果を意識してどれだけの数(臨床)にあたったか?によって作られていくと思いますし、もともとセンスが無くてもそれはそれで、自分の役割を全うするプロになればいいわけで、その目的意識を持つ事が『センス』を持つ事になるし、逆に言えば、目的意識を持たずに10年やっても全く『センス』を持たない薬剤師にしかならないということですよね。

薬剤師はもっと『センス』を磨かなくちゃね!

不平等な平等

新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

2007年の一発目のコラムですが、私は昔から数学と物理が大好きな理系人間で、最近自分の子供の勉強の話や学校の話を聞いて違和感を覚えたことがあったので、コラムに書こうと思います。

私が何故、数学や物理(理科)が好きになったかと言うと、物事を解くという好奇心が満たされたことも当然なんですが、なんせ『不平等』だったんですよね。

難しい問題になればなるほど解ける人間と解けない人間とに分かれ、どんなに努力してもひらめく人間とひらめかない人間に分かれる。

勉強した時間と結果が比例しないという不平等さが私を無性にひきつけ、それゆえの逆転性(ギャンブル性)が生まれることが非常に楽しかったのを覚えてます。

加えて、文章題などは解へのアプローチが一つでなく複数あり、基礎学力と応用学力を駆使して論理的な解き方(文章)をクリエイト(創造)していく感覚が非常に芸術的だと感じていました。

そうなると一番大事なのは『センス』ということになり、またこれが不平等なんですよね。センスがなければ『きれいな解き方』にならない。

これが理系の楽しさだったような気がします。

今、うちの子供の勉強を見ていて感じることは、『平等』なんですよ。みんな可能性がありがんばれば報われるような教育のような気がしてならないんです。

不平等であっても平等の感覚、例えば、私の小さな頃はクラスでは役割が各人あり、(自分のなりたい立ち位置と現実の立ち位置のギャップはあるけれど)自分の役割をはたすという意味での平等さがあり、クラスが成り立っていた様に思うんですよ。

それは個性の尊重ではなく各役割の全う性であり、不平等だったけど当人は平等感があったんですよ。

そういう感覚をもっと子供のころから教えた方がいいのではと思ってしまいます。

俺からすれば、今の平等は不平等だよね。